
「公共」は誰が担うのか ― 社会起業家と共感資本がつくる、新しい公共の時代 ―
不動産のブログじゃなかったの?!なんて聞こえてきそうですが、
今回は私が最近連携しているOSUSOというプロジェクトが目指している世界観についてお伝えしたいと思います。
タイトルの作品は、困難な状況のなかでも消えない「新しい命や未来への希望」を象徴する作品。ゴッホが亡くなる直前に描いた一枚『アーモンドの花咲く枝』青空に向かって力強く伸びる枝と、春の訪れを告げる純白の花々が描かれています。
資本主義の先にあるものはさて、絵画のよう。
「公共」は誰が担うのか ― 社会起業家と共感資本がつくる、新しい公共の時代 ―
私たちは今、「公共」のあり方そのものが大きく変わろうとしている時代に生きている。
かつて公共とは、行政や国家が担うものだった。道路や公園、学校や福祉、医療や防災。社会に必要なものを整備し、維持し、平等に提供すること。それが近代国家における公共の役割だった。特に戦後日本では、高度経済成長とともに「行政が公共を支える」というモデルが強く機能した。税金を集め、それを再分配することで、社会全体の安定と成長を実現してきたのである。
しかし、いま、その構造が静かに限界を迎えつつある。
背景にあるのは、社会課題の複雑化だ。少子高齢化、空き家問題、地域コミュニティの崩壊、孤独や分断、気候変動、生物多様性の喪失、子どもの居場所不足。現代社会の問題は、単一の制度や予算だけでは解決できないものばかりになっている。しかも、それぞれの地域やコミュニティによって状況が異なるため、全国一律の制度設計では対応しきれない。
さらに、国家財政にも限界が見え始めている。人口減少による税収減、高齢化による社会保障費の増大、地方自治体の財政悪化。これまでのように「行政がすべてを担う」という前提そのものが、持続困難になりつつある。
だが、本質的な変化はそこだけではない。
人々の価値観そのものが変わってきているのである。
高度経済成長期においては、「便利になること」「豊かになること」「効率化されること」が大きな価値だった。しかし成熟社会に入った現代では、人々は単なる物質的豊かさだけでは満たされなくなっている。むしろ、「どんな社会を残したいか」「誰とつながりたいか」「何に共感するか」「どんな未来に参加したいか」という意味や関係性を求めるようになってきた。
つまり、社会そのものが、「消費者の時代」から「参加者の時代」へ移行し始めている。
その中で、これまで行政が担ってきた公共領域に、新しいプレイヤーたちが現れ始めている。それが、社会起業家や地域事業家と呼ばれる人々である。
彼らは単なる慈善活動家ではない。地域課題や社会課題を、「解決すべき問題」であると同時に、「新しい価値を生み出す機会」として捉えている。行政が制度や公平性を重視するのに対して、彼らは現場から仮説を立て、小さく実験し、人を巻き込みながら改善を重ねていく。空き家を地域の交流拠点へ変える人。都市で自然教育を実践する人。子どもの居場所をつくる人。地域資源を活かして循環型経済を生み出す人。そうした実践者たちは、従来の「公」と「民」の境界を越えながら、新しい公共を形づくり始めている。
これは単なる「民営化」ではない。
むしろ、「公共の再分散」と呼ぶべき変化である。
かつて公共は共同体によって担われていた。江戸時代の日本においても、用水管理や祭り、防災や相互扶助は、地域共同体によって支えられていた。「結」や「講」、あるいは「おすそわけ」の文化は、まさにその象徴だった。近代化によって公共は国家へ集中したが、いま再び、人々の手に公共が戻り始めているのである。
その変化を支えているのが、「共感資本」という考え方だ。
これまでの資本主義では、お金が中心だった。しかし現代においては、人の共感や信頼、応援、参加意欲そのものが、大きな価値を持ち始めている。人は単に商品やサービスにお金を払うだけではなく、「この人を応援したい」「この地域を残したい」「この活動に参加したい」という感情によって動くようになっている。
つまり、社会を動かす力が、「所有」から「共感」へ移り始めている。
この流れの中で重要になるのが、「社会課題をどう見える化し、誰とつなぎ、どう参加可能にするか」である。
社会課題の多くは、実は“知られていない”のではなく、“関わり方がわからない”のである。応援したい気持ちはあっても、どこにアクセスすればいいかわからない。誰を信頼すればいいかわからない。結果として、多くの人が「気になる」で止まってしまう。
だからこそ、これから必要なのは、単なる情報発信メディアではない。
社会課題と人をつなぎ、共感を参加へ変え、さらに地域での実践へ結びつける「参加インフラ」である。
OSUSOが目指している方向性は、まさにそこにあるように思う。
社会課題をデータベース化し、それぞれの地域で挑戦する社会起業家や事業家を可視化する。そして、その活動に共感する応援投資家や参加者を集める。さらに、現地での活動や学び、投資や協働へとつなげていく。
それは単なる「社会課題メディア」ではない。
むしろ、「公共を再編集するプラットフォーム」に近い。
重要なのは、そこに流れる思想である。
行政だけに依存するのではなく、市場原理だけに委ねるのでもない。共感を軸に、人と人、人と地域、人と未来をつなぎ直していくこと。お金だけではなく、知恵や経験、人脈や時間、場やコミュニティも含めて「応援」として循環させていくこと。
これは、日本が本来持っていた「おすそわけ」の文化とも深くつながっている。
これからの時代、「公共」は国家だけのものではなくなるだろう。そして同時に、「民間」が単なる利益追求の存在でもなくなっていく。
公共性を持った企業家、地域に根ざした実践者、共感でつながるコミュニティ。それらが重なり合いながら、新しい社会の基盤を形づくっていく。
私たちは今、その歴史的な転換点に立っているのである。
そんな象徴的な作品を最後にご紹介したい。
グスタフ・クリムト《生命の樹(The Tree of Life)》
複雑に枝を広げながらも一つの幹でつながる生命の樹は、多様な人々やコミュニティが支え合う社会の姿を想起させる。行政だけでは解決が難しい社会課題が増えるなか、地域事業家や社会起業家、市民、投資家がそれぞれの役割を持ちながら未来を育んでいく。互いのつながりの中から新しい公共が生まれる時代を象徴する一枚ではないか。

